2016年1月4日月曜日

衒学的(ペダンティック)に読書

 もっと本を読もう、と思った。

 理由の一つは、読んで初めて知ったことを看護学校の授業や講演会などで小話的に使っていけたら、講義の内容にも深みが出て興味をもってもらいやすくなるかなと考えてみたからだ。でも、なかなか読書のための時間を作ることは難しい。読書家としても有名な大阪大学の仲野徹教授は、お忙しいお仕事の中、1週間に10時間読書をするとどこかで読んだ。それなら私は、1週間に5時間を目標にしようとなんとなく思った。

 さあこれからどんな本をどんな順番で読んでいこうか、と計画を練っていたところ、偶然手にした本が 『読書力』 齋藤孝/著.岩波新書. だった。この本にはまず

読書好きと「読書力がある」は違う。もちろん一致する場合も多いが、好きな推理小説作家の作品だけを読み続けている人は、読書好きとは言えるが、読書力があるという保証はない。 

と書かれている。 自分に読書力があるかどうかは別にして、たしかに私のまわりでも読書好きという人達が紹介する本は流行りの小説やミステリー、または自己啓発本ばかり目立ち、私が好きな新書や科学的興味をそそられる本の紹介が少ないと感じていた。だから、読書好きと公言する人たちと本を話題に会話しようとしても、もともと読んでいるジャンルが違いすぎるので会話が成立しないことがほとんどだった。
 でもこの本を読んで、まずは今のままのスタイルの読書でいいんだよと言ってもらえたようで安心した。しかし、同時にこの本にはこうも書かれている。

さて、私が設定する「読書力がある」ラインとは、「文庫百冊・新書五十冊を読んだ」というものだ。「力」を「経験」という観点から捉えた基準だ。

 新書を今まで何冊読んだか数えたことはないけれど、たぶん五十冊に届いていると思うが、百冊には及んでない。新書が好きと言っても、所詮そんなもの。そして文庫に関してはお恥ずかしながら五十冊にも満たない。私の読書力はまだまだということだ。 そんな私が、読んだ本の知識をみせびらかすようなことをしてもいいのだろうか?

ペダンティックと言う言葉がある。衒学的という意味で、学問や教養を必要以上にひけらかす態度のことだ。

 あら、まさしく私が本を読んで、授業や講演会でしようとしていることだわ、と恥ずかしくなってしまった。でも、この後に続く文章を読んでいくと、本の内容を会話に入れてはいけないという意味ではなく、もっと会話の中に本の話を取り入れて、それが相手を刺激することもあれば自分が刺激されることもある、そいった読書欲を高める会話をしようではないか、ということだった。それどころか、せっかく読んだ本の内容を忘れないために次のような方法をすすめている。

そのために私が効果的だと思うやり方は、本を読んだらとにかく人にすぐその内容を話すということだ。読んだ直後や読んでいる最中ならば、何とか話の内容は覚えている。知識がまだホットなときに、人に話してしまうのだ。

 つまり、本を読んだらそれを人に話すことは相手の読書欲を刺激したり、自分の記憶の定着にも役立つわけだから、これから私がこのブログでしようとしていることも意味があるのだと自分自身を納得させた。ただし、読んで頂いた方の読書欲が刺激されるかどうかは私次第なので、そこのところは分からないけど、とにもかくにも始めてみようと思っている。

 

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