2016年1月30日土曜日

申年の赤い下着と鴨居羊子

 篠田桃江著『103歳、ひとりで生きる作法』を読んだ。最近、ご高齢の方にとって生きることの意味を考えさせられることがあり、そんな折に書店で目にしてなんとなく手に取ったものだ。パラパラとめくってみると、何とも言えない知的な佇まいが文章からにじみ出ている。103歳のまだ半分も私は生きてない。
 
 そんな篠田桃江さん、ちょっとしたことで転倒し圧迫骨折と診断されたと書かれている。そして老人は転んではいけないと強く訴えている。たしかに骨折した後、今までできていたことができなくなり、一気に衰えていく高齢者を、私も今まで何人もみてきたので、これは真実だと思う。

 さて、今年は申年。「申年に贈られた肌着を身に着けると下の世話にならない」 「赤い肌着を贈る、または贈られた肌着を身に着けると病が去る」そんな話を私が初めて聞いたのは、前々回の申年の時だった。母が「新聞に書いてあったから」と急にそんな風習を語り始め、祖父に贈る肌着を買いに一緒にデパートへ行った。私は、そんな風習聞いたことないなと、なんだか半信半疑の気持ちだったけど、たしかに肌着売り場にはあまり目立たないながらも申年の肌着を宣伝するポスターが貼ってあったので、そういうものなんだと感じた思い出がある。

 申年を迎えて、スーパーの肌着売りのマネキンたちは真っ赤な肌着でトータルコーディネートされて飾られているのを見かける。本当にこの風習は昔からあったのか。もしかしたらバレンタインデーのチョコレートみたいに、肌着メーカーが作った都市伝説なのではないかと疑ってみたくもなる。

 そんなことを思ってインターネットで調べていたところ、鴨居羊子さんという人を知った。彼女は日本で初めて女性用のカラー下着をデザイン、販売した方。またエッセイも数多く残されていて、『女は下着でつくられる』鴨居羊子著(国書刊行会)は一度読んでみたい。

 鴨居羊子さんがカラー下着をデザインしたのは昭和31年のことだ。偶然にも昭和31年は申年。となると、それ以前の申年には女性用の赤い肌着を手に入れるのは事実上困難だということになる。赤い腰巻やズロースならあったのかもしれないけど。もっとも赤い肌着でなくても、とにかく肌着であればよし、とされている説もあるので、それならば昔からこの風習があったとしても問題ないわけだが。

 なんて事をボーっと考えながら、申年には赤いワインをプレゼントすると一生美味しく食事をとることが出来るなんていう風習ができるといいな、と思ってる。

2016年1月20日水曜日

太宰治「水仙」と蜆汁

 寒波到来。昨日は雪が舞い散る寒い1日だった。この寒さの中で咲く花と言えば水仙。可憐な白い花が冷たい空気の中で咲きほこる姿に、なんとなく昭和の匂いを感じる。偶然知った太宰治の小説「水仙」は、高校の国語の教科書(筑摩書房)にも載っていたことがあるらしい。
 ここでは小説の内容は割愛するが、太宰が新年にお金持ちの知人、草田惣兵衛氏の家に招かれたときの夫人、草田静子の様子を語るこんな場面がある。
僕は、もうそれ以上お酒を飲む気もせず、ごはんを食べる事にした。蜆汁しじみじるがおいしかった。せっせと貝の肉をはしでほじくり出して食べていたら、
「あら、」夫人は小さい驚きの声を挙げた。「そんなもの食べて、なんともありません?」無心な質問である。
 思わず箸とおわんを取り落しそうだった。この貝は、食べるものではなかったのだ。蜆汁は、ただその汁だけを飲むものらしい。貝は、ダシだ。貧しい者にとっては、この貝の肉だってなかなかおいしいものだが、上流の人たちは、この肉を、たいへん汚いものとして捨てるのだ。なるほど、蜆の肉は、おへそみたいで醜悪だ。僕は、何も返事が出来なかった。 
                                        引用 太宰治 『水仙』
 
 お酒のあとに蜆汁が出てきたのは、シジミが飲み過ぎに効くという言い伝えがあるからなのだろうか。こんなところからも、この日太宰が草田家で歓待された様子が伺えるな、と感じた。
 
 さて、シジミに含まれるオルニチンというアミノ酸が二日酔いを予防するとはまことしやかにささやかれているけど、本当だろうか。岡田正彦著『効く健康法 効かない健康法』には「ウコン、シジミ、牛乳を飲めば二日酔いにならない?」と題され、そのようなデータはなく、特段の効果があるかは不明とされていた。

 二日酔い予防には、アルコールを飲むときは食事と一緒にとること、水分をしっかりとること、そして当たり前すぎることだけど飲み過ぎないのが一番ということか。

 
 

2016年1月11日月曜日

ランゲルハンス島の午後

  今日は成人の日。村上春樹の短編小説に「バースデイ・ガール」という作品がある。中学3年生の国語の教科書(教育出版)にも載っているので、成人となった方の中にはこれを読んで勉強した記憶がある人も多いのでは。
 20歳の誕生日を迎えた女の子に、アルバイト先のちょっと秘密めいたオーナーがひとつだけ願いごとをかなえてあげると言ってくれる。小説の中では彼女がその時何を願ったのかは明らかにされず、それが本当にかなったのか、それを願ったことを後悔していないのかなど、自分だったらどうしただろうかと色々考えさせられてしまう。そして新成人の皆さんは、どんな願い事をするのか。そんな村上春樹の誕生日は明日、1月12日。

 村上春樹のエッセイに ランゲルハンス島の午後 という、一風変わったタイトルのものがある。女性誌CLASSYに連載された作品をまとめたもので、安西水丸が絵を描いていて、ちょっと絵本のような仕上がりになっている。この本のために書き下ろされた作品「ランゲルハンス島の午後」はこのエッセイの最後に載っている。

 生物の教科書を忘れた中学1年生の男の子が、走って家に帰って教科書を取り、もう一度学校に戻る途中でちょっと休憩してしまう話。

 「ぽかぽかとした」という形容がぴったりする、まるで心がゆるんで溶けてしまいそうなくらい気持ちの良い春の午後で、あたりを見まわすと、何もかもが地表からニ、三センチぽっかりと浮かびあがっているみたいに見えた。僕は一息ついて汗を拭き、川岸の芝生に寝転んで空を眺めた。ずいぶん走ったんだもの、五、六分休んだってかまやしないだろう。      
ランゲルハンス島の午後(新潮文庫) 村上春樹/著 


                                                      
  なぜ村上春樹はこのエッセイ集に「ランゲルハンス島の午後」と名付けたのだろう。ランゲルハンス島の午後は、心がゆるんでしまいそうなくらい気持ちのよい時間らしい。そこは天国に一番近い島、ニューカレドニアではなく、地図にはのっていない島。ランゲルハンス島は私たちの体の中、膵臓に存在する島。膵臓の組織を顕微鏡でのぞくと、ぽつりぽつりとまるで広い海に小さな島が浮かんでいるかのように見えるものがあり、それがランゲルハンス島だ。

 ランゲルハンス島のβ細胞からはインスリンが分泌される。年末年始の食べ過ぎで、大忙しだったランゲルハンス島は、そろそろ午後の一休みを求めているのかもしれない。

 

2016年1月7日木曜日

七草粥とジアスターゼ

 七草粥は1月7日の朝に食べるのが本当らしいが、我が家の朝は時間との勝負なので、七草粥は夕食のメニューとなる。でも毎年7日お昼の病院食は七草粥で、もちろん今日の昼食もそうだった。正直言うと夕食は普通の白米を食べたかったかも。
 さてこの七草粥、お正月のご馳走で弱った胃を休めるためだとか。七草のスズナ(カブ)、スズシロ(大根)にはジアスターゼという消化酵素が含まれてる。そういえば、お餅を食べる時大根おろしをつけて食べると胃もたれしない、という話を聞いたことがある。

 明治27年に高峰譲吉は酒造りに使う麹菌からジアスターゼを抽出して、これを消化薬「タカジアスターゼ」としてアメリカで売り出したところ大成功。ジアスターゼは世界中で愛用されるようになったとのこと。
  実は、「吾輩は猫である」にもこのタカジアスターゼを飲む様子が出てくる。夏目漱石自身も胃潰瘍に悩まされこの薬を飲んでいたそう。
 
輩の主人は滅多めったに吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎をのぞいて見るが、彼はよく昼寝ひるねをしている事がある。時々読みかけてある本の上によだれをたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色たんこうしょくを帯びて弾力のない不活溌ふかっぱつな徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食ったあとでタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。 
      引用元 夏目漱石 『吾輩は猫である』
 
 


 世界的大ヒットとなった「タカジアスターゼ」を開発した高峰譲吉は、この他にも「アドレナリン」の発見というこれまた偉大な業績を残しているが、この辺りのことはこちらの本にも詳しく紹介されている。
 
 
 
『ニッポン天才伝 知られざる発明・発見の父たち』 上山明博著 朝日新聞出版
 

 

 最後に、ジアスターゼは医療現場ではアミラーゼと呼ばれている。アミラーゼはデンプン分解酵素で、私たちの体では唾液と膵臓から出る膵液に含まれるお馴染みの酵素だ。
 

 
 

2016年1月6日水曜日

教養不足は自覚しているけど、教養って何?

 医学部に合格し、医師国家試験にも合格し、内科認定医にも合格し、糖尿病専門医試験にも合格したけど、教養のない私。なんでこんなに教養がないのだろう。もっと本を読んだら、教養が身につくのだろうか。
 なんとかしないといけない、と思っていたところ、1月1日のkindleの日替わりセールで おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?.池上彰/著.NHK出版新書 が紹介されいたのでポチってしまったわけだ。

 人生をある程度生きてきた読者のあなた。いま改めて勉強し直したいと思ううようになった心の根底には、「自分はどこから来て、どこへ行くのか。自分はいまどこにいるのか」という問いかけがあるのではないでしょうか。その問いかけは、あなただけのものではありません。過去の人類が、向かい合ってきた問題でもあります。問題への真摯な取り組みが、「リベラルアーツ」という学問体系を築きました。リベラルアーツとは、その時々の「現代の教養」として発展してきました。

 自分の心の根底に「自分はどこから来て、どこへ行くのか。自分はいまどこにいるのか」という問いかけがあるのか?と問われると、そんな気もするしそうでない気もしたりする、というのが正直な気持ち。『自分はどこへ行くのか』だと主体性なく流されていくような印象なので、私的には『自分はどこへ行くべきか、行こうとすべきか』といったものの方がしっくりくるかな。

 とにもかくにも、教養をつけるためには「リベラルアーツ」というものがポイントとなるらしいことは分かった。ギリシャ・ローマ時代のそれとは別に「現代の自由七科」は①宗教 ②宇宙 ③人類の旅路 ④人間と病気 ⑤経済学 ⑥歴史 ⑦日本と日本人 だということだ。特に⑤⑥が弱い私。重点的に鍛えたいところだ。

 一方で、ここには美術や音楽が入っていないことに気づく。美術や音楽への造詣が深い人は、教養のある人だと思っていた。どうやら「教養」というのは「常識」とか「博識」とは違って、自分自身と向き合い、自分の立ち位置を確認し、目指すべきゴールが見えている人、ということみたいだと理解した。そこへたどり着く道のりの中で多様な価値観を知ることとなり、自分だけでなく他人の気持ちを理解することができるような人間に成長することができるのだろう。

 読書を通じて、教養を高めていく。なかなか奥が深そうである。

2016年1月4日月曜日

衒学的(ペダンティック)に読書

 もっと本を読もう、と思った。

 理由の一つは、読んで初めて知ったことを看護学校の授業や講演会などで小話的に使っていけたら、講義の内容にも深みが出て興味をもってもらいやすくなるかなと考えてみたからだ。でも、なかなか読書のための時間を作ることは難しい。読書家としても有名な大阪大学の仲野徹教授は、お忙しいお仕事の中、1週間に10時間読書をするとどこかで読んだ。それなら私は、1週間に5時間を目標にしようとなんとなく思った。

 さあこれからどんな本をどんな順番で読んでいこうか、と計画を練っていたところ、偶然手にした本が 『読書力』 齋藤孝/著.岩波新書. だった。この本にはまず

読書好きと「読書力がある」は違う。もちろん一致する場合も多いが、好きな推理小説作家の作品だけを読み続けている人は、読書好きとは言えるが、読書力があるという保証はない。 

と書かれている。 自分に読書力があるかどうかは別にして、たしかに私のまわりでも読書好きという人達が紹介する本は流行りの小説やミステリー、または自己啓発本ばかり目立ち、私が好きな新書や科学的興味をそそられる本の紹介が少ないと感じていた。だから、読書好きと公言する人たちと本を話題に会話しようとしても、もともと読んでいるジャンルが違いすぎるので会話が成立しないことがほとんどだった。
 でもこの本を読んで、まずは今のままのスタイルの読書でいいんだよと言ってもらえたようで安心した。しかし、同時にこの本にはこうも書かれている。

さて、私が設定する「読書力がある」ラインとは、「文庫百冊・新書五十冊を読んだ」というものだ。「力」を「経験」という観点から捉えた基準だ。

 新書を今まで何冊読んだか数えたことはないけれど、たぶん五十冊に届いていると思うが、百冊には及んでない。新書が好きと言っても、所詮そんなもの。そして文庫に関してはお恥ずかしながら五十冊にも満たない。私の読書力はまだまだということだ。 そんな私が、読んだ本の知識をみせびらかすようなことをしてもいいのだろうか?

ペダンティックと言う言葉がある。衒学的という意味で、学問や教養を必要以上にひけらかす態度のことだ。

 あら、まさしく私が本を読んで、授業や講演会でしようとしていることだわ、と恥ずかしくなってしまった。でも、この後に続く文章を読んでいくと、本の内容を会話に入れてはいけないという意味ではなく、もっと会話の中に本の話を取り入れて、それが相手を刺激することもあれば自分が刺激されることもある、そいった読書欲を高める会話をしようではないか、ということだった。それどころか、せっかく読んだ本の内容を忘れないために次のような方法をすすめている。

そのために私が効果的だと思うやり方は、本を読んだらとにかく人にすぐその内容を話すということだ。読んだ直後や読んでいる最中ならば、何とか話の内容は覚えている。知識がまだホットなときに、人に話してしまうのだ。

 つまり、本を読んだらそれを人に話すことは相手の読書欲を刺激したり、自分の記憶の定着にも役立つわけだから、これから私がこのブログでしようとしていることも意味があるのだと自分自身を納得させた。ただし、読んで頂いた方の読書欲が刺激されるかどうかは私次第なので、そこのところは分からないけど、とにもかくにも始めてみようと思っている。